話說福星
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Fu Xin International Corp
お祝い 台湾福星茶業が創造した痩身的な冷たいお茶ティーバッグを台湾デザインの最高の栄誉金點獎を獲得

始まり:1919年

「福星茶業」の創立は、鄭福星会長が妻のお父上黄清良先生の功績を偲び、茶葉の価値に対する教えを伝承していきたいとの思いがその由来となります。

黄清良先生は、1899年嘉義県鹿草に生まれ、幼少の頃から唐山より来た中国医に師事し、薬草医術(俗称「唐山仙仔」)を学びます。後に台南県白河鎮仙草埔に移り、そこで医師として人々の力となってきました。1919年老茶店「福沏號」を創立。医師と老茶商の二足のわらじを履いていました。黄先生は人々の生活苦を目にし、庶民が高価な漢方薬を使った治療を受けるのは困難だと考え、「神農本草経(漢代中国医薬学書)」・「本草綱目(明代中国薬学書))にある「お茶は薬草の王、その効用は気の流れを良くし、血流を整える‥」との記述から、処方薬に老茶葉を加え薬とし、優れた効果を引き出したのです。

黄先生は字こそ読めませんでしたが、中国医としての豊富な知識を持った人情に厚い方でした。義侠心を以って庶民の論争・紛糾を仲裁することも度々で、地元民からは深く尊敬され「盲の参謀」の異名を持つようになりました。

茶葉の効能を熟知していた舅は、長寿のためにと幼い頃から子供達に茶を飲む習慣を養わせ、また茶葉の貯蔵を教えたのでした。「おじいちゃんの秘蔵茶、孫が売る。」と言われるように、貯蔵しておくことで茶の価値が上がるため、子供達には茶葉を保存しておくことを教えたのです。

伝承:ひとかけらの孝行心、生涯の事業

黄清良先生の末娘、素娥は17歳の時鄭福星に嫁ぎました。素娥は幼い頃から見事なお茶の腕前を身につけていたので鄭福星はそれを見て覚え、茶葉を珍重していた舅の概念を受け継いだのです。1969年台南府城に「福沏號」を創立。後に「福星茶荘」と店名を変え、貯蔵60年以上の「陳年老茶」と独自に開発した「龍眼炭火焙煎茶」を主とする茶の商売を始めました。

1971~90年当時は正に台湾茶産業発展の全盛期でした。「福星茶荘」にもその波は打ち寄せており、お茶好きのご近所さん方が食後の一服にとお気に入りの「奨仔缶」(一人分の陶器の急須)を手にして店に集まります。鄭福星は海を渡ってきたSONYの映写機で、日本の「猪木対馬場」のプロレスを放映しては、お茶を飲みながら「プロレス鑑賞」を楽しんでもらうのでした。

 

革新:百年福星、漂う茶の香

1981~2000年、真空包装機が誕生し、半発酵茶(生茶)の生産スピードが飛躍的に上がり、それに伴って「半生熟茶」、「包種茶」が衰退していきました。伝統的な方法でお茶を製造していた茶商店は生き残る為に商品転換をし、「生茶」や「冷凍茶」の販売を余儀なくされたのでした。「福星茶荘」の鄭福星もこの産業環境の変化に直面し、経営の方向を変更せざるを得なかったものの、伝統ある老茶の価値を熟知していた彼はその伝統を失わせないよう、当初の経営理念を諦めず「福星茶業」の中で、六十、七十、中には百年以上物の伝統ある穴蔵老茶を残していく使命を担ったのです。

2002年、長男の鄭正郁は、父である鄭福星が伝統老茶の価値を守ろうと努力する姿とその精神を見るにつけ、熱中していたロックミュージックを諦め、家業ののれんを守るため、また伝統茶葉市場を衰退から救うという責任感に駆られ、父親から経営のバトンタッチを受けたのです。「福星茶荘」をモデルチェンジし、「福星茶業」を創立。新しい斬新な展開を迎えたのです。

鄭正郁は先ず設計に「ポストモダン」を採り入れ、「健康・味わい」という新様式を打ち出すことで、小売のスタイルを変えました。また従業員教育にも接客訓練を取り入れた研修を採用し、社内にプロフェッショナルを育成しました。販売力・専門性・茶芸(お手前)の結束を強化し、加えて品質技術を向上させ消費市場の信頼を勝ち取ったのです。

茶製品に於いては、台湾茶の特徴・文化背景・海抜・産地(山)・製法分類に照らし、「子午金穂・瑠璃仙毫・精挑細選・福来韻転・星火相伝・享楽時刻」の6シリーズを創作。また上質なお茶請け菓子「享楽時刻」も開発しました。

鄭正郁は「手軽に楽しむ・味わう健康」を「福星茶業」の経営方針としています。「味わう健康」が業界のルイ・ヴィトン的位置を占める‥そんな国際舞台を開拓し、ブランド化、企業の国際化を目標に、世界的な健康茶の流れを導いていきたいのです。

2008年北京オリンピック到来
福星茶業―台湾珍重茶シリーズが中国で正式にお披露目されます。

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